おもいで箱

苦しみと哀しみはあらゆる喪失からくる。
画家のおもいで箱をひらきます。

高3の冬、17歳。当時の水準で5年生存率2割、ステージ3cの卵巣がんになった。
ステージ3cっていうのはステージ4の一個手前、おなかの中に癌が散らばっている状態。ピンとこないが医者がそう言った。
のたうち回る痛みと不正出血で病院へ、手術は12月30日だったように思う。
今は知らないけど癌の告知なんて17歳にはきちんとなくて、薄々感づきながらも頭は受験のことでいっぱい。多摩美武蔵美に合格するも、芸大は一次試験で落ちた。大事な時期に十分に受験対策ができなかったこともあり翌年芸大再受験を心に決める。
その後一年間は抗がん剤治療を6クール、アルバイト、夜間の予備校通い、人生で一番頑張っていた時期だ。

でも抗がん剤は7回目で逃げ出した。

吐く。とにかく吐く。水すら口にしていないから吐くものがない。胃液を吐く。胃液が無くなって緑色の液体を吐く。十二指腸のそれだという。
人生であれ以上の辛い経験は今後もないかもしれない。7クール目の直前に、再発してもいいと本気で思った。もうなんのために闘っているのかわからなくなっていた。私なんてそもそも生きている価値なんて無いんだ。だって好きな人の、その人の子供を産んであげられないんだから。

失ったものを取り戻すことはもうできない。誰も悪くない。分かっている。何かの罰だと言う人もいる。17歳の私の罪はなんだろう、小学生のころ駄菓子屋でガムを盗んだことを後悔した。本当にごめんなさい。

私が手術と治療で入退院を繰り返した大学病院、病棟は産婦人科だった。お産と婦人病患者が一緒に入院する。同室の60代くらいのおばさまたちが自分の病状を騒がしく話している。
「お産の人はいいわよねぇ、おめでたいことなんだから」
そりゃそうだ、でもここから矛先がこっちに向く。
「あなたはなんで入院しているの?」
来た。事情を説明する。斜め上の返答が来たため答えを用意していないおばさまたちは素っ頓狂な事を言う。
「でも最近は子供を作らず犬を飼う人も多いからね、気にしちゃだめよ」
入院中、世代の近いお産の女性よりおばあちゃん世代のこの人達の不用意な言葉が再三私を傷つけた。性犯罪被害者に「殺されなくてよかったわね」って言うのと一緒だ。
患者が患者を精神的に苦しめる。私は自分の体験を箱に詰めて蓋をした。

これまでほとんど誰にも打ち明けず生きながらえた。
無遠慮な質問と好奇の目から自分の心を守るためには何も言わないのが一番だったんだ。
でももういいだろう。そろそろ解放されたい。

あれから癌の治療法はどう変わったのだろうか。新薬の開発で生存率は上昇傾向とはいえ、予後の悪い癌はあまり変わらないように見える。
最近は心療内科との連携での総合的な癌治療が行われているらしい。私にはそれが無かった。今の自分を見ると性格のひん曲がった中年女がいっちょ上がりだ。生まれた時代を呪うしかない。

幡野広志さんという写真家がいる。彼は3年の余命宣告を受けた34歳の癌患者でもある。
直接お目にかかる機会をいただき、たくさんの話をした。その時のことはいずれ幡野さんが何かの形で触れてくれるかもしれない。

幡野さんとは同じクリエーターとして共通する点も多く話が合った。少なくとも私はそう感じた。
でも若年癌でありながら、私と幡野さんの境遇は全く違う。
癌患者をひとくくりにしないでほしい。
年齢、性別、性格、障害、癌種、ステージ、家族、様々な要因が絡まって多種多様なんです。

私の癌は運よく転移も再発もしなかった。7回目を逃げ出したとはいえ6回の抗がん剤治療は意味のあるものだった。
今度なるなら別の癌だ。つねに恐怖が付きまとうがこればかりはもうどうにもならない。

奥底に埋めた箱の蓋を半分開けた。箱の中にはまだたくさんのものが詰まっている。
いつかすべてを取り出す日が来るかはわからない。
いまさらこんなちっぽけな告白に意味があるのか不思議に思う人も多いだろう。誰も興味を持たないかもしれない。
でも私にとっては大きな一歩だ。

さて、今日も絵を描きます。

2018年2月14日 木村佳代子


写真:幡野広志

わたし自身のことを話す勇気をくれた幡野広志さんに感謝いたします。
https://blogs.yahoo.co.jp/hiroshi_hatano1983